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もてない人間の雑記帳・ゆるく断捨離中

鞄が重い  

鞄が重い。

先日仕事帰りに友達と待ち合わせてご飯を食べに行って、帰りがけに友達が私の鞄を取ってくれたんだけど、持ち上げた瞬間「重っ!」と言われてしまった。
その自覚はある。
具体的に何が重いのか書き出してみることにした。

鞄(A4サイズが入る、量販店のセールで買った肩掛け鞄)
・財布
・携帯
・ipodとヘッドホン
・家の鍵
・定期入れ
・A4クリアファイル
・ハンドタオル
・折り畳むとものすごく小さくなるエコバッグ
・折り畳み傘
・ポーチ(小)…ティッシュ、頭痛薬、胃薬、目薬、リップクリーム、脂取り紙
・除菌ウエットティッシュ
・手帳(無印マンスリーウィークリー)+ジェットストリームfシリーズ(赤・黒・シャープペンが1本になっているやつ)
・日記帳
・文庫本

書き出してみると多い。
これに化粧道具一式が入っているポーチ(大)(と言っても化粧適当人間なので必要最低限)も持ち歩いている日があって、そりゃ重たいよなって感じだ。
ポーチ(大)を持っている日というのは大抵朝起きられなくて顔面のすべてを諦めて出社した日だ。
冬はその確率が高くなって、毎朝髪を巻いてる人なんかもいるのになあと思う。
自分の見た目に自分で関心がないからこうなるのだと思う。どう見られようが別に…みたいな。

また、下3つの「紙もの」が最も鞄を太らせている。
手帳や日記帳は少し元気のある退勤後に寄り道をしてお茶を飲みながら開くのが好きなので持っていたい。
心の支え的な意味もある。絶対に見られてはいけないというリスクはあるが…
あとだいたいは文庫本を持ってるけどたまに単行本を持っている時がある。それはやめようと思う。

あとはもう減らせるものはない。ヘッドホンをやめてイヤホンにするくらいか。
水筒は最近会社に置きっぱなしにしている。
ウエットティッシュは別に潔癖なのではなく、今年の冬はインフルエンザやノロが流行っていると聞いて恐ろしくなり、この冬に限ってマメに使っている。
もうめちゃくちゃアルコールが強くてむせる。種類選びに失敗した。

鞄が重い問題は解決しそうにない。
とりあえずはポーチ(大)を持ち歩かない日を増やすことか。

いつも拍手ありがとうございます。
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昼食の憂鬱  

拍手ありがとうございます。
こんな面白味もない日々の話を誰かが見てくれていると思うだけで嬉しいです。

会社での昼食のことは前も話題にしたことがあるけど、会社の人と食事をとることが苦手すぎてよく外で一人で食べている。
誰かと食べることそのものではなくて仲良くもない人と一対一が嫌なのだ。
島を無人にできないので毎日二人ずつローテーションを組んで昼食を摂るんだけど、その場所が無人無音テレビラジオなしなので気まずくて死にそうになる。
会話すればって感じだけど、いつもこちらが発話してもすぐ終わってしまうので疲れてしまった。
それが誰と一緒でも起こる。
無言でも相手は気にしないのかもしれないけど…私はそうやって気を遣いながら食事するくらいなら環境が悪かろうと一人がいいのだ。

食堂を使う日もあるけど、それをする元気もないときはコンビニで買ったものを公園やベンチで食べるんだけど、改めて数えてみると

公園
児童公園
向こうの公園
近くの小さい仏閣のベンチ
商店街のベンチ
セブンイレブン横
橋のたもとのベンチ
違う橋のたもとのベンチってほどでもない椅子
ちょっと遠い公園
ホームセンターの軽食コーナー
土手っぽい所のボロい椅子

とこのように10ヶ所以上も人に見つからない場所を持っていて日々転々としている自分はおかしいのではないかと思い始めた。
ごくたまにちょっと歩いてラーメン屋やファーストフードまで行くこともあるけど滞在時間が10分とかになってしまう。
そこまでして人と食事したくない、話したくない、あの空間にいたくないってもうちょっと強迫観念入ってるよなと思う。
これをリアルの友人知人に話すと仕事をやめろとか私ならこうするとかアドバイスされるけど、何度も言うように私はアドバイスは求めてなくて、ただ聞いてほしいだけなのだ。

最近読んだ本に、そういう辛さを撒き散らすのはお互い様だから、自分がそうしてしまったとしても誰かがそういうモードの時は受け止めてあげればいい、というようなことが書いてあって少し気が楽になった。
あまりに自分が言い過ぎではないかと思ってたから。
わたしも誰かの心のお布団?になりたい。
お布団なんて理想が高いな。あんな最高なもの。毛布1枚とか?
この本、啓発本かと思いきや実践的にそれなりにためになることが書いてあったので読んでよかったと思います。
もっともああと思ったのは、知らない人にその人の知らない話題を説明するのがコミュニケーション上達の練習になるということ。
私は固有名詞に説明が不要な人とばかり話したがる傾向にあるし、そういう居心地がよくて当然な相手に寄り掛かりたくなる。
要は楽をしたいだけだと自分でも思う。
鴻上尚史『コミュニケイションのレッスン』という本です。
この人の本というか戯曲の文字起こしを何度も読もうとして挫折してたので敬遠してたけどこれはよかった。

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読書をしなくてはと思っている人へ  

私は人と会うと読んだ本の話をよくするんだけど、十中八九の人が「私も本読まないとな~」と言ってくる。
それについて、自然発生的に読みたいと思わなければ別に読まなくてもいいし、義務感で読むほどのもんでもないよなと常々感じる。
私は暇だから本屋や図書館をウロウロして、その結果というかついでというかでまあ手ぶらも何かって感じで本を持ち帰って読んでいる。
あと体力を使わないし一人でできるのもいい。
他に趣味ややりたいことなどがあればそれをすると思う。
逆に言うと本読まないとなーと言っている人達は、他のことに時間を使っているのだから、それでいいと思う。
私も学生の時はあまり本を読まなかった。高校生までは部活や受験勉強や宿題や友達と無意味に何時間も話をすることに時間を使っていた。あとお笑いもよく見ていたと思う。
大学生も基本的には同じで、加えてバイトやレポートや仲間内での活動のため、とても本など読んでいる暇がなかった。
学生が本を読まない!と騒がれているけどまあ当然かなと思わなくもない。そりゃ読んでる人もいるけど…

たぶん、本をたくさん読みなさいという教育が強すぎて大人になっても強迫観念として残り、読まなくてはいけないような気がしているのだと思う。

本を読むと頭がよくなるとか思考力文章力が身に付くとかは嘘だ。
いや、まるっきり嘘とは思わないけど、身につく人とつかない人がいるから、二次的な副産物を求めて読むくらいだったらガッカリするからやめとけばって感じだ。
本を読む側からの上から目線で言ってるわけではなくて、私だって本なんか読まずに自分で何か楽しいことを創り出せる人間だったらよかったのにと思う。
一人より大勢が好きででも一人でも色々できてやりたいことがたくさんあって…みたいな。
人間としての理想が高い。

今も仕事について色々読んでるけど、これについては私はもう頭でっかちで、自分に足りないのは行動することだと自覚している。
私自分でもびっくりするけど、リア充タイプではないものの例えば人に嫌なことを押し付けたりさぼったり規則を破ったりする人よりは人生うまく渡っていけるだろうしそういう人たちを出し抜けると20歳くらいまでは思っていた。
就職活動を機に、いわゆるリア充の方が断然有利だし世の中もそういう人材を求めている!!と気が付いてこの世の仕組みを知った。端的な言い方だけど、とにかく地道に生きてればなんとかなると思っていたのだ。
それが今どうだ。この体たらく。

脱線したけどだからつまり何だ、本を読んだからといって立派になれるわけでもないしむしろ現代で評価されるのはとりあえずなんでもやってみる人の方だから、読書しなくちゃという強迫観念に苛まれてる人には大丈夫ですよと言いたい。

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笑いについて  

最近落ち込むことがあって落ち込んでいて、(頭痛が痛いみたいな書き方になりますが…)何かをしようという気にもなれない。
それを理由にいろんなことを怠けてるだけかもしれないけど。
やろうと思っていた些細なことも、部屋の掃除も、人と会うことも、どこかへ行くことも。
もともと欲望の希薄な人生だと思っていたけど色々なことが輪をかけてどうでもよくなっている。
身なりを整えることもしてない(これは日頃からの怠慢もあるけど)のでそりゃ人と会う気にも誘う気にもなれないよなって感じだ。
そういう訳で件のことを考える時間が大幅に減っていて、それだけはよかったかなと思う。
(ちなみに件のことと落ち込みは全然関係がありません)

いつかこの経験から得たものが負の財産だけではなかったと思えるようになりたい。
とりあえずはマイナスからのスタートだと感じている。

ところで今日仕事をしている中で、人は好感を持っていない人の冗談やボケでは笑えないのだなということに気付いた。
他の人が言ってたら笑ってただろうなと思いながら合わせて笑ってたり、この人の発言じゃなかったら心から笑えてたかもというようなことがあって、もちろん無意識にやってあとでふと気づくんだけど、この人が言ったことごときに感情を動かされるものかという変な自制が働いてるのだろうか、小さい人間だな私もと思う。
つまり人の「笑い」にはその人や場への評価が多分に含まれており、仲間内で楽しいとか徒党を作りたがる若い学生(学生に限らないか)がなんであんなことであんなに盛り上がっているのだろうと思うようなことはこのメカニズムから起こっている。
「あいつあんなことやって本当にバカだなー」というその彼ないし彼女への好意的な感情が笑いを生むのである。
同じようなことで、思えば高校生のとき昼食を一緒とっているメンバー内での同調圧力の笑いが苦痛だと思っていた。
一人がボケて、それに皆が延々と乗っかっていく。
こういうコミュニケーションの取り方って大人にもあって、私はすごくつまんないし、自分が頑張って乗ろうとすると失敗して流れが止まったりするから嫌い。
要は自分の得意なコミュニケーション形態じゃないから嫌いってことでわがままは自覚してる。
でも高校の時の話のような、そういう「場の雰囲気」に支配されることは危険だと思う。
私は危険だと思う派だけど、身を委ねてるほうがいいと思う人もいるのはわかる。
それで排除されるの怖いしな。
でもこれって多くの人が漠然と思ってることなんだと思う。
みんな同調圧力から逃げ出したいし、閉塞感に苛まれている。はず。
とかグダグダ考えることによって私は自分自身を生きづらくしてる。

早く落ち込みから立ち直りたい。

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何かを始めるということについて  

どうしようもない記事に拍手ありがとうございます。励みになります。

刺繍を始めたいと思っていて、それというのも好きな作家の津村記久子さんが刺繍にはまっているというのを見たからだ。
なかでも刺繍した布をワッペンのように仕上げて安全ピンをつけブローチにするというのがやりたい。
本屋さんに行き、かわいい図案がのっているものをピックアップして、さんざん眺めて、用意する道具をチェックし、

本も道具も何も買わずに帰る

というのを5回くらい繰り返している。

この5回の間に始めてしまえば今ではブローチのひとつでも完成してたかもしれない。
でも、できていない。


私は死ぬほど手先が不器用だ。
生まれついて不器用なことの他に、ろくに手先を使ってこなかったというのが大きい。
家庭科の縫い物系はいつもビリでむしろ独力で完成したという記憶がない。
完成途中で持ち帰った弁当バッグ、エプロン、ナップザック、フェルトの羽織もの…
恐ろしいことに記憶とは捏造される代物で、学生の頃私はしっかりしてるキャラだったので、当然裁縫ができない方だとは自分でも思ってなかった。
今にすれば家庭科で必要な通り一遍のことは男子以下でほとんど何もできなかった。今もできない。
一種の思い込みだよな。不思議。

関係ないけどほぼ捏造の家族ほのぼのエピソードを作文だか日記に書いてクラス通信に載せられたりしてたことも甦ってきた。
それも罪悪感なしというか、無意識に理想を書いたのかもしれない。
今思うと色々と恐ろしい。
ドラマやCMのように、母から子に生活の中できちんといろんな事を自然と教えられてる家の子供ぶってたと思う。

あと針との苦い思い出といえば羊毛フェルトを始めようとしてすぐ諦めたことだ。
羊毛フェルトでマカロンを作るキットを買ってきて、完成したのがゲームのポップンミュージックで音符として上から落ちてくるハンバーガーみたいなやつにそっくりで、(調べたらポップ君というらしい)そして思ったような楽しさも達成感もなかったのでそれ以降手をつけることがなかった。

このような経験に基づいて、刺繍もせっかく道具を揃えてもすぐやらなくなるのではないかと自分を疑っているのだ。
だってあの木の輪っかとか買って持て余したらどうするの。

ふと思ったけど、私は自分に自信が無さすぎる。
というか、自分に信用が持てなさすぎ。
刺繍なんて一人でできるんだし勝手に始めればいいのに挫折が怖くて始められない。
こういう性分が人生をつまらなくしてるし何もうまくいかない原因であると思う。
悩んでる時間が無駄であることは明らかなのに。

また何も達成できない盆休みを過ごすんだろうな。

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tag: 思い出話 
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仕事とは  

仕事というものが一体何なのか分からなすぎるのが、今の生活がこれではいけないと漠然と感じて地に足がついていない心地のする原因だと常々思っている。

仕事と人との間にどういう付き合い方や距離感があるのかを探るべく、というと大袈裟だけど、とりあえず身近なところからサンプリングしてみることにした。

ルーズリーフに、
名前
職業
正規非正規の区別
始めた時期
きっかけ
聞き知った限りの仕事内容
勤怠と休日
その他
の項目について思うままに書き出してみた。

一人につきルーズリーフ2分の1枚でとりあえず10人分集まった。
特筆すべきはやはりその他の部分で、ここには雑多に、パートのおばちゃんが空気の読めない人で困ってるらしいとか、こういういきさつで社内に彼氏ができたとか、同期との折り合いとか、やりがいを感じているかとか、嬉しい、辛いのはどんなときか、変わった選考があったとかを思い出せる限り書いている。
たぶん最も重要な項目だと思う。
逆に激務だけどお金のために頑張ってるとかそういう人を除き、給料には触れていない。
聞かないし、それよりは気持ちの面を知りたいからだ。

別に取材をしたわけではなく、遊んだときに話題にのぼったことや、SNSで本人の口から出ていた情報も含まれている。

こんなことをしていて自分でも気持ち悪いことは自覚している。
書かれた人ごめんなさいと思う。
それに10人サンプリングしても今のところ何か法則や傾向が見つかったわけではなく、単に十人十色だなあと思うだけ。
ただ、人それぞれこんなにいろんなパターンがあると思うことで自分が仕事をしている現実にも意味や理由を見出したいような気がするのだ。

しかしこんな個人情報満載の紙をわざわざ生産して私は一体何がしたいんだろう。
就活を真面目にやらなかったから今になってこんなことをしているのかと一瞬思ったけどこの活動は就活の企業研究的なものとはまったくの別物で、もっと「仕事」を「人間」に寄せて大枠でとらえた、かっこいい言い方をすれば人間哲学であると位置付けたい。

ひとつ言えるとすればおよそ半分くらいがやりがいもないし楽しくもないけど生きていくためにやってるという子で、やっぱりそれもアリだよねこのままでもいいやと思う。

あと何人分集めれば満足するのか自分でもわからないけど、どこかで何かの、もしくは自分でない誰かの役に立てばいいのにと思う。
でもこんな個人情報第三者の役には立たないだろうなあ。
また人に言えない変な活動を増やしてしまった。

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台風が来て、去って行った。

毎日漠然と各分野について「このままでいいのか」という思いにだけ支配されて生きている。
あまり明るい内容ではないです。

・仕事について
このまま続けたところで何かが得られるわけでもないしスキルが身につくわけでもない。
かと言って他にやりたいことがあるわけではない。
何よりまた就職活動をすると考えただけで吐きそうになる。
実は一度職を変えたことがあるのだが、あの時は本当に職場に向かうこと自体が苦痛を伴うものだったことに比べれば、辛いけれど何も楽しくないけれど通えてるだけましだから容易く手放すものではないと感じている。
そりゃやりがいがある仕事と出会えるならそっちの方がいいけど出会えるとは思えない。

・家族について
家族の問題というのが高校生くらい(もっと古くからあったんだけど、深刻な問題として心に積もっていくようになったのがそのあたり)からあった。
自分が社会人になって一応大人と称される立場になり、彼らが子供に隠していたものが見えてくるようになったりして見方が変わったのもあって更に重くのしかかってくる。文章おかしいけど。
具体的にはなんと言ったらわからないけれど、一言で言えば「不和」以外の何物でもない。
それに「老い」が加わって事情はさらに混沌化している。
自分はそういうものから目を逸らしたくて逃げたくて仕方がないのだけど、一緒に暮らしている限りそれらはずっとそこにあってどかすことができない。
果たして全力で回避していいのかもわからなくて、実家を出ることもままならない。
言い訳と言われればそれまでだけど。
大人だから自分でなんとかするけれど、私は人が思うよりも(人がどう思ってるかは知らないしたぶん他人について所見や感想などない)家族のことで悩んでいる。
わかってほしいわけじゃないけど、出口がなくて辛い。
何が辛いかというと、いろいろな要素や角度が絡まって自分でも具体的に説明ができないことと、自分が存在している時点で逃れようのない事象であること、たいして辛いことではない、世の中にはもっと…と自分を責めがちになることと、誰にも言えないというか言いようがないことだ。
これに関しては悩みの「核」がとらえられない。

・集団のこと、そして
もう一ヶ月ほどあの人間と顔を合わせていない。
久しぶりに文字で話しかけてみたらしばらく返事が来なくて落胆したけど(と言っても一日そこら)心のどこかであの人は律儀なので返してくるだろうと思っていた。
なんてことはない返信が返ってきたけど、だからどうということも特にないという報告するまでもないことだけがあった。
そういう律儀なところは好きだけど、これは仕事と同じように義務的に発揮された律義さなんだろうなと思う。
それでも有難く受け取るけど。
これからどうなるんだろう。どうにもならないんだろうな。

社会人の人に、今悩んでいることはあるか聞いて回ってみたい。
だいたい同じ年頃、境遇の人がどういうことを日々考えて生きているのかが気になる。

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あたりさわりのない人  

最近もこれと言ってうだつのあがらない生活を送っている。
強いて言えば、先週は人と会う機会が二度あった。

一度目は学生時代の友達で、夕食をとりながらとりとめもない話をした。
主に彼女の近況報告を聞くことに終始していたと思う。
最近彼氏ができたとかで、明らかに幸せなオーラが出ていて、体調もよさそうだった。
こちとらビタミン剤を飲み始めたけどプラシーボ効果すらなくただ尿を黄色くさせているだけなのに。
友達なので特別妬んだり僻んだりすることはないんだけど、そういう人生が普通にやってくるのが不思議だ。
何より今まであれだけ相手の容姿にこだわっていた彼女が、彼の人柄や自分に対する愛情の深さで恋人を選んだということに上から目線ながら成長を感じ、やはりそういう堅実な年頃だよなと思って自らを顧みると何もない。
元々これまでも何もないのでそこまで焦ったり落ち込んだりはしないんだけど。
人は人自分は自分と思っているからこっちはこっちでやっていくけど、周囲はそんな感じで人生がすすんで行ってるなと思った話。

二度目はこれまた学生時代の知り合いの人たちと複数で集まった。
その中にとても行動力もコミュニケーション能力も高い子がいて、地元が近いというきっかけで仲良くしてくれていろんな集まりに引き合わせてくれるんだけど、今回も彼女発案の集まりだった。
すると当然知り合いだけどあまり親交の深くない人がいたりする。
たしかに学生時代から友達なんだけど、一対一では絶対に遊ばない子。
同じ趣味を持ってるけど、それで会話が弾むわけでもない。
これってなんなんだろうと思うけど、今回も謎が解けなかった。
私自身にも原因があるということはひとまず置いておいて、その子に関して分析すると、非常に「あたりさわりのない子」だということが言える。
いつもニコニコして相槌を打っていて、自分のことをあまり話さない。
でもいつも権力者の近くや力のある集団?の輪の中にいる。
つるんでいる友達もいて、そういう子たちとは深い話をするのかもしれないけど、私とはその手の話をしたことがない。
私が自分の話をしたり笑いを誘うようなことを言ってもニコニコするだけ。
私は「つまらない人」と思われるのが怖くて無駄にベラベラ話してしまうこともよくあるけど、そういう空回りをしなくても周りに人がいる彼女のことが不思議だ。
こういう「あたりさわりのない人」って実は結構いて、学生の時も彼女の他にも何人かいたし、職場にもいる。
一番気になるのはその人が誰の前でなら「素」になって、それがどんな風で、どうして私はその「素」を見せる人間に選ばれないのかということだ。
知る由もない。

前述の一緒に夕食をとった友達なんかは、自己主張が強くてわがままと評されることもあるけれど、自分のことをバンバン話すので「あたりさわりのない人」よりは安心して付き合える。
あとは飲み会のおじさん達ってどうでもいい身の上話や昔話を一方的にしてくるけど、こういう感覚がなさそうに見えてものすごくほんの少しだけ羨ましい。
「あたりさわりのない人」の後ろに私が勝手に見ている裏の部分が恐ろしいんだと思う。
人間ってわからないものを怖がる傾向があるからなあ。
きっと私も誰かにとっては「あたりさわりのない人」なんだろうな。

大人になるとそういう「あたりさわりのない人」が増える。
と、最近気が付いた。
とくに10代の頃は自分の好きなものをものすごい勢いで薦めてくる子とかがいて、本や漫画や音楽を「押し貸し」してくる友達が結構いた。
それで新しい発見があったり、自分もはまったりした。
大人になってしまうとそういうのってかなり難しくて、さみしいなと感じる。
身近な人からの口コミって情報源として個人的に貴重だから。
みんな自分をさらけ出すのがそれなりに怖いんだと思う。
それが閉塞感につながったりして、私達の生活はわりと息苦しい。


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立派な人  

いつも拍手ありがとうございます。
地に足のつかない気持ちがする毎日の励みになります。


世の中には立派だったと言われる故人がいるじゃないですか。
亡くなってから偲ばれ語り継がれる人数や年数の多い人という言葉に置き換えてもいい。
で、最近そのとある「立派な人」の追悼文集を読む機会があった。

その偉人とはまあ会社の昔の社長(のちの会長)なんだけど、私の所のような小さい会社でもその人の血縁者や逝去を心から悼んだ人々によって追悼文集みたいなものが作られていたのだ。
けっこう前の文集なんだけど、社に関する勉強の一貫として読むように渡されたというのが事の始まりなんだけど…
知らない人の事を読んでもこう、あまり実感がないというかそんなに素晴らしい人でも私はもう会えないしなあって感じだ。
この社に雇ってもらったのはありがたいけどこれと言って愛社精神はない。
それに私を雇い入れてくれたのは今の直属の上司及び人事部の人々であってその偉人ではないし、強いて言えば社長が創始者の血縁だけど、その人に受け継がれた偉人のエッセンスとやらもハァ…って感じだ。
何が言いたいかというと、みんなで私の知らない偉人を讃えられても蚊帳の外の人間からしたら冷めますという至極自分勝手な感想。
文集も当然だけどマンセーに次ぐマンセーで胸焼けがしてくる。
そしてそんな自分に嫌悪するのも嫌だ。
冷めの最大の原因としては、血縁者からの寄稿が多かったんだけど、故人とは言えそこまで血縁者を公の場で讃えられる人たちを妬んでしまったことが挙げられる。
私はたとえば自分の親を尊敬も何もできなくて、現に死後誉め称えられるようなこともないだろうなと思っている。
あまり惜しまれずに死ぬんだろうなと。
これは自分自身にも言える。
そういう所から生まれたコンプレックスを、この追悼文集にものすごく刺激されてしまったのだ。
私も本当は死後伝記になったり記念館なり資料館なりが作られてガラスケースに手記が並ぶような大人物になりたかったのかもしれない。

何事も「人は人」と割りきれればいいんだけど、あらゆる事を自分の方に引き寄せて比べて勝手に卑屈になってしまう本当に悪い癖を治さないといけない。
今回の件だって別に死後たくさんの人に偲ばれれば偉いって訳じゃないし、その人と私自身や私の家族はまったく違う人生だという自然なことしか言えないのに。
本当妬み嫉みをやめたい。

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コールスロー  

ってまずくないですかあれ…
昔給食に出るたびに散々私を苦しめた細切れのキャベツたち…
あれにちょっとすっぱい味がついてるせいで…(自粛)
つい先日そんなコールスローにふたたび出会った。社食で。
極力食べ残しはしない主義なので残さず食べたけど、やはりおいしくはなかった。
でもこれを完食しようとしている自分に大人になったな…と一人感慨をおぼえた。
「大人になった」と感じるのが、酒が飲めるようになったときでも初任給をもらったときでもなく「コールスローを完食したとき」であることにささやかな驚きと情けなさを感じるけど、なるほど目に見えて大人を自覚できることなんてさほどないのかもしれない。

・給食の思い出
とにかく残すこと・苦手なおかずの配膳を断ること・人に与えることが許されなかった。
今でこそおいしいと思って好んで食べるけど、昔はサラダ類が苦手でそれは苦労した。
小学生の私はどうやって残すかが毎日の大問題だった。
食べ物を粗末にするのは本当に恥ずべき行為だし今では決っっっしてやらないけど、当時の私は担任の目を盗んで袋に詰めて焼却炉に捨てにいったり、とりあえず口に含んでトイレでこっそり吐き出したりとか色々やった。
中でも最悪で今でも思い出すと胸が痛むのは、わざと誰かとぶつかってこぼすという手法だ。
これはもっとも苦手なヨーグルトサラダ(ヨーグルト、野菜、みかんが混ざっている・ヨーグルトが野菜の水分でびちゃびちゃ・あれにちょっとすっぱい味がついてるせいで以下自粛)のときに一度だけ用いた方法だ。
食缶が空になって全員分配膳し終わってからやらないと、またよそられてしまうのでタイミングが重要になってくる。
懺悔懺悔…
もちろん、いつもいつもこんな姑息なことをしていたわけではなく、だいたいは味の濃いおかず:嫌いなおかず=3:2くらいの割合で口に含んで無心に食べていた。
そう考えると、義務教育も楽ではなかったな…

思うに、今は野菜っておいしくなってると思う。
昔の野菜はもっと野菜野菜しててその辺の草と大差ないのではと思ってたけど、最近の野菜は確実においしい。
糖度が高いとか謳われているものでなく普通のものでもかなりのクォリティだと思う。

これから大人になるってどういうこと?と聞かれることがあったら、コールスローが食べられるようになったときだよと説明しようと思った。

拍手くださる方、いつもありがとうございます。

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