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もてない人間の雑記帳・ゆるく断捨離中

角田光代『愛がなんだ』読了  

最近続けて角田光代さんの小説を読んでいる。
歌人の枡野浩一さんのポッドキャストで角田さんの本の話が出たことをきっかけに読み始めた。
一部ツイッターに書きなぐった文章と重なるけどちゃんと感想文を書いておくことにする。

愛がなんだ (ダ・ヴィンチ・ブックス)
愛がなんだ (ダ・ヴィンチ・ブックス)

『愛がなんだ』は28歳会社員のテルコがとある集まりで知り合った田中守通称マモちゃんに惚れぬいてでも都合のいい女におさまり続けていてマモちゃんには他に好きな女ができて…という話。
テルコは生活というか生命活動の中心がマモちゃん一色になってしまって大人としてどうかと思うような行動をしてしかしそれは自覚してるけど直すつもりはなくて、他人に指摘されようとも絶対に変えることはない。
本当に本当にどうしようもないんだけど、この主人公と私自身は実は紙一重かもしれなくて、かなり微妙な針の触れ幅で自分がそっちに行ってしまう可能性なんて存分にあるように思えてきて、自分がこうならないと信じて彼女の行動を批判するなんてどうしてできようかと思う。
そう考えると恐ろしいものがある。
現に一人の人間のことが頭にこびりついてひとときも取れなくて自分はどうかしているなと思うことがあるからだ。

好きとか執着とか純粋とかわからないけど湧いて出る感情というのはたしかにあって、他人から見たらひどく滑稽だったり常軌を逸してたりするんだけどそんなのどうでもいい、気にもならないと自然に感じているときの状態こそ我々が普段社会生活の中で押し込められてるものの正体だと思う。
皆そういう部分を理性で無意識に圧し殺して生きている。
一生発症しないから気が付かないという人が殆どだと思うけど。

こんなことしたらかっこ悪いとか思ってるうちはまだまだ尻が青いんだなーと思った。
テルコのように本来好きとか嫌いとかに恥や外聞は介入してこないものなのだ。
でもそれも度を越すとテルコのように相手や周りの人にけっこう迷惑をかける。
そこの調節機能がもうバカになっているというか機能としてついてないのがテルコという人間だ。

ただまあ、テルコがやってる事っていうのは私が思うに恋愛ではない。
別にうまくもないけど頭の中に浮かんだイメージとしてツイッターにも書いたんだけど、こうおにぎりを握るように徐々に形を整えて相手との関係を作り上げていく過程のことを恋愛と言うのなら、テルコのそれは米も具もぐっちゃぐちゃに相手に投げつける感じ。

テルコの男バージョンとも言える登場人物がいて、その男はテルコの友達に片思いをしてるんだけど、やがてそれをあきらめようとする。

P208 ナカハラくんはおそらく、交際もできないのに葉子を好きでいること、好きでいて、あれこれと彼女の欲求を満たしてやることに疲れたのでは、けっしてないだろうと思った。たぶん、自分自身に怖じ気づいたんだろう。自分のなかの、彼女を好きだと思う気持ち、何かしてあげたいという願望、一緒にいたいという執着、そのそべてに果てがないことに気づいて、こわくなったんだろう。

また、物語の終盤ではこう締めくくっている。

P217 マモちゃんの恋人ならばよかった。(略)いつか終わる片恋ならよかった。いっそストーカーと分類されればよかった。幾度も私はそう思ったけれど、私はそのどれでもなくどれにもなり得ず、そうして、私とマモちゃんの関係は言葉にならない。(略)だったらどこにもサンプルのない関係を私がつくっていくしかない。

こうしてテルコはマモちゃんとの関係を終わりにできない。終わりとかハナからないのだ。
テルコの人生が急に終わらないのと同じように、それに付随したこれも終わる終わらないの話ではない。
「愛」と一言で片づけられたら、恋人とか片思いとか言うように形や名前を与えてしまったらどんなに楽か、そのあまりの複雑さ、説明できなさが『愛がなんだ』という一言に集約されているのだと思う。
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category: 読んだ(本)

tag: 書籍 
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昼食の憂鬱  

拍手ありがとうございます。
こんな面白味もない日々の話を誰かが見てくれていると思うだけで嬉しいです。

会社での昼食のことは前も話題にしたことがあるけど、会社の人と食事をとることが苦手すぎてよく外で一人で食べている。
誰かと食べることそのものではなくて仲良くもない人と一対一が嫌なのだ。
島を無人にできないので毎日二人ずつローテーションを組んで昼食を摂るんだけど、その場所が無人無音テレビラジオなしなので気まずくて死にそうになる。
会話すればって感じだけど、いつもこちらが発話してもすぐ終わってしまうので疲れてしまった。
それが誰と一緒でも起こる。
無言でも相手は気にしないのかもしれないけど…私はそうやって気を遣いながら食事するくらいなら環境が悪かろうと一人がいいのだ。

食堂を使う日もあるけど、それをする元気もないときはコンビニで買ったものを公園やベンチで食べるんだけど、改めて数えてみると

公園
児童公園
向こうの公園
近くの小さい仏閣のベンチ
商店街のベンチ
セブンイレブン横
橋のたもとのベンチ
違う橋のたもとのベンチってほどでもない椅子
ちょっと遠い公園
ホームセンターの軽食コーナー
土手っぽい所のボロい椅子

とこのように10ヶ所以上も人に見つからない場所を持っていて日々転々としている自分はおかしいのではないかと思い始めた。
ごくたまにちょっと歩いてラーメン屋やファーストフードまで行くこともあるけど滞在時間が10分とかになってしまう。
そこまでして人と食事したくない、話したくない、あの空間にいたくないってもうちょっと強迫観念入ってるよなと思う。
これをリアルの友人知人に話すと仕事をやめろとか私ならこうするとかアドバイスされるけど、何度も言うように私はアドバイスは求めてなくて、ただ聞いてほしいだけなのだ。

最近読んだ本に、そういう辛さを撒き散らすのはお互い様だから、自分がそうしてしまったとしても誰かがそういうモードの時は受け止めてあげればいい、というようなことが書いてあって少し気が楽になった。
あまりに自分が言い過ぎではないかと思ってたから。
わたしも誰かの心のお布団?になりたい。
お布団なんて理想が高いな。あんな最高なもの。毛布1枚とか?
この本、啓発本かと思いきや実践的にそれなりにためになることが書いてあったので読んでよかったと思います。
もっともああと思ったのは、知らない人にその人の知らない話題を説明するのがコミュニケーション上達の練習になるということ。
私は固有名詞に説明が不要な人とばかり話したがる傾向にあるし、そういう居心地がよくて当然な相手に寄り掛かりたくなる。
要は楽をしたいだけだと自分でも思う。
鴻上尚史『コミュニケイションのレッスン』という本です。
この人の本というか戯曲の文字起こしを何度も読もうとして挫折してたので敬遠してたけどこれはよかった。

category: よもやま話

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